私には、中学時代から付き合っていた人がいました。

私には障害があり、言葉が話せないのですが、
普通のクラスに入ることができ、初めて隣の席になったのが佐藤音羽君でした。
音羽君はとても穏やかな人で、しょっちゅう教科書を忘れてくるから
机をつけて私の教科書を一緒にみて授業をうけたりしていました。

教科書以外のものは絶対忘れてこないのに、変わった人だなあとおもっていたら
夏休み前に校舎の裏に呼び出されて、私は音羽君に告白されました。
私のことを、ずっとスキだったのだと彼は言ってくれます。

私は言葉を話せないから、手話で返事をしようとおもいましたが
日常会話程度の手話しかクラスの子達は知りません。
嬉しい気持ちと困った気持ちで胸がいっぱいになってしまい
私は涙がでてしまいました。そしたら佐藤君が手話で話しかけてくれたんです。

『今すぐ返事しなくていい。泣かないでほしい。』
彼の長い手指が、ゆっくりと動いて語りかけてくるのです。
気がついたら、私の手は動いていました。
『私もずっと好きでした。私でよければ付き合ってください。』

次の瞬間、へたへたーと音羽君は座り込んでしまいました。
でも、すぐに立ち上がって『やったー!!』っと叫ぶと、私を抱きしめてくれました。
初めて佐藤君の家に遊びにいったとき、彼のベッドの枕元には
読み古された手話の本が、置いてありました。

夏休み。宿題を一緒にやったり、プールに行ったりお祭りにいったり、毎日が楽しかったです。
佐藤君はいつも手をつないでくれるから、私はとても安心していました。
中学二年生になったとき、初めて佐藤君とキスをしました。
触れるだけのキスでしたが、したあと2人でしばらく涙が止まらなかったことを今も思い出します。

別々の高校に進学した後も、私達は交際を続け、一年生の夏休みに初めて体を重ねました。
時間をかけてゆっくりと触れ合える時間が大好きでした。

そんなある日、彼から相談を受けました。
『ふみちゃん・・・俺、美容師になりたいから専門学校にいこうとおもってる。』
私は佐藤君にぴったりな職業だなあとおもって賛成しました。
そしたら彼は更に言うのです。
『頑張って勉強して・・一生懸命働いて・・自分の店をもてたら
結婚しよう。俺、ずっとふみちゃんと一緒にいたいんだ。』

なんの覚悟もせず聞いた彼の言葉は、私にとって何よりも素敵な宝物になりました。
私だって、何一つ迷わずにずっと佐藤君について来たのです。
彼と一緒に未来を歩むなら、私も美容師の資格を取りたいと思いました。
家に帰ってから、両親にそのことを打ち明けると、両親は真剣に話を聞いてくれました。

翌日、家に帰ると佐藤君が居間で両親と話をしていました。
私の両親は、佐藤君のことがとても大好きでした。
だからこそ、ああいう事をいったのだと思います。

『今まであの子の事を大切にしてくれてありがとう。
これからは、佐藤君は佐藤君の人生を楽しんで
普通のお嬢さんと結婚して幸せな家庭を築いてください。』

私は居間への扉に手をかけることすら出来ません。体が震えました。
佐藤君の声が聞こえてきました。彼は泣いているようでした。
『俺は・・ふみちゃん以外の誰かを好きになるなんて考えられないです・・絶対別れたくありません。』
彼の言葉が嬉しかったのは事実ですが・・でも・・同時に悲しい気持ちが心を侵食していったのです。

その夜。私は両親に佐藤君と別れるようにと静かに説得されました。
一人っ子の佐藤君のところに、私を嫁がせるわけにはいかないという
両親の・・私や・・佐藤君への気持ちは、痛いほどに私を納得させました。

それからしばらく私と佐藤くんは、そのことに触れないようにしながら、手をつなぎ歩く日々を過ごしました。
でも、高校卒業と同時に私からその手を離したのです。

佐藤君はアルバイトをしながら専門学校に通っているようでした。
私との恋が終わっても、美容師になることを目指していたようです。
私は福祉関係の仕事に就き、日々は容易く過ぎていきました。

そして24歳の夏。私は偶然に佐藤君と再会したのです。

佐藤君は小さい男の子をつれていました。その子と話をしていたので、私には気づいていないようでした。
だから私は、気づかれないまま立ち去ろうとおもったんです。
声を出せない私には・・彼の名前を呼ぶことが出来ないから。
でも・・でも彼は気づいたんです。何も言わない私のほうを振り返り、しばらく呆然とした後
『・・・・ふみちゃん・・・』って呼んでくれたんです。

佐藤君が連れていた子は、佐藤君の子供でした。
佐藤君によく似ていて、比呂くんという名前で、とてもかわいらしかったです。
『ふみちゃん・・ヒマ?』というので、コクンと頷くと
『一緒に川いこう。話がしたい。』と佐藤君いわれ、私は彼について行きました。

佐藤君の車のルームミラーのところに、何年も前に私がつくったミサンガがかけてありました。
それをみたら涙が出てきて、比呂君が必死に私を慰めてくれました。
言葉が少し不自由な比呂君は、自分まで泣きそうな顔で慰めてくれて
佐藤君と比呂君と私の三人しかいないこの車の中が
世界の全てであったらいいのにと・・願わずにはいられませんでした。

川について、夢中になって三人で遊んで、帰りにファミレスに寄ってご飯を食べました。
食べてるうちからウトウトしていた比呂くんは、車に乗ると私の膝枕でぐっすり眠ってしまって
そんな比呂君の髪を撫でながら、私は佐藤君の左手がギアチェンジしている様子を
ぼんやりと目で追っていました。
何度も抱きしめてくれたあの頃よりも、たくましくなった彼の手。

『ふみちゃん。』
不意に名前を呼ばれ、私はゆっくり前を見ました。
ルームミラー越しに佐藤君が私のほうをみていました。

『ふみちゃん・・。俺は・・今でもふみちゃんを忘れられない。バカやって子供できちゃったけど・・
でも俺はやっぱふみちゃんが居なきゃ駄目なんだ・・。
もらった手紙も全部とってある。捨てられなくて全部とってある。
最後の手紙も何度も読んだ。でも俺・・・・。』

佐藤君はウィンカーを左に出し、道路わきに車を寄せ、ハザードをつけて車を止めると
ハンドルにもたれながら話をしました。

『比呂が生まれて・・俺・・この子の事が本当にかわいくてさ・・
でも・・今・・色々事情があって・・この子を幸せに出来てないんだ。
早く正式に引き取って・・・二人だけで住めたとしたら・・・そこにふみちゃんも居てほしい・・。
こういう事言う資格・・俺にはないかもしれないんだけど・・でも
やっぱり好きな人は一生大切だ・・出会っちゃったからしぬまで一緒にいたい。
俺・・ふみちゃんと別れてから・・・。』

短い沈黙の後・・佐藤君が疲れたような声で言いました。

『バカみたいにしんどかったよ。』

膝の上の比呂君が起きないよう、そっと私は手を伸ばし、佐藤君の背中を擦りました。
そしたら佐藤君が静かに顔を上げて、私の髪を撫でました。そして頬を擦りました。
ずいぶん長い間、私達はずっと離れ離れで、言葉を交わすこともなかったのに
会えなかった悲しい季節の苦しみが手に取るようにわかったのです。

『私・・・ずっと・・話が出来ないんだよ』
手話で彼に話しかけると、佐藤君が首を振ります。そして静かに手を動かし

『話はしてる。いつだってしてるじゃん。俺の話に頷いてくれて、いつも俺を支えてくれる。
俺のいいたいことは、いつでもちゃんとふみちゃんに伝わってた。
俺らは話せる。できないことなんかない。俺には、ふみの声がちゃんと聞こえてる。』

・・・・佐藤君・・・まだ手話を覚えていてくれた・・・。

彼と会えない日々。辛くて辛くて、生きることに挫けそうでした。
他の困難は乗り越えられても、大切な人と二度と会えないことを想像すると
生まれた意味さえわからなくなり、世界はどんどん狭くなっていきました。


もしかしたら本当に・・私の声は・・彼だけに届いているのかもしれない。
何も話さずに黙る彼の気持ちが・・ちゃんと私に届いているように。


私達は、もう一度手をつないで歩む道を選びました。
乗り越えなければならないことは沢山あるとおもいますが
私の手と・・小さな比呂君の手をしっかり握って引っ張ってくれる強い彼が
いてくれるから私は負けません。

今日は彼が比呂くんと遊びに来るので
ジャガイモと人参抜きのカレーを作りたいと思います。
BACK