2006/7/21 (Fri.) 00:23:14
比呂がまた薬で病院に運ばれた。これで二度目。前回は鎮痛剤だったが、今回は風邪薬だった。
連絡を受け妻と病院に行くと、比呂がベッドに横たわっていた。思わず駆け寄り比呂を抱きしめる。
耳元で寝息を聞いたとき、小さな頃の比呂の顔が脳裏をよぎった。
翌日。
カメラマンである私は、日中仕事で東京に行き、面会時間を過ぎたあたりに、病院の駐車場についた。
正面玄関はもう閉まっているので、救急外来の入り口に向かう。
すると、自転車にまたがって、比呂の病室のほうを見上げている男子高校生を見た。
髪の色がピンク色だったから、あれはきっと幸村君だったんだろう。
私が声をかける前に、自転車ですうっと走っていってしまった。
エレベーターで五階に行く。静かに病室のドアを開けると、比呂がすやすやと眠っていた。
大きくなった比呂。でも赤ん坊の頃から何一つ変わっていない気もする。
私は比呂のベッドの脇に、パイプイスを置いてすわり、彼の頬をしばらく撫でていた。
前回、鎮痛剤を飲みすぎたこの子は、その理由を『死にたかったから』といった。
今回、何故こんなことになったのか・・・考えることを私の心が拒絶している。
比呂が目を開けた。『おじちゃん・・・。』消入りそうな声の比呂。私は、黙って頷く。
『おなかはすいていない?』
『・・大丈夫。』
『痛いところはない?』
『・・・ない。』
妻の話によると、比呂は一日のほとんどを、眠りに費やしている状態で
それも夢を見ているのか、しくしくさみしそうに泣くのだそうだ。
比呂は私が来たことで、気を使って起きてくれたのだろう。
『今日はおじちゃん、ここにとまるから。比呂はもう寝てもいいよ。』
というと、比呂は何もいわずに、すっと眠ってしまった。
主治医の先生が、ちょうど当直でナースセンターにいたので、比呂の容態等の説明を受けることができた。
記憶障害と言語障害が若干あるらしいが、これは一過性のものだろうといわれた。
ただ、一点。これは誰もが思っていることだが薬の大量服用を、繰り返した件だ。
比呂のメンタル面での治療に取り組んだ方がいいのではないかと勧められる。
この病院には心療内科がある。催眠療法で、薬の服用の原因を聞きだすことができるかもしれないといわれた。
だが私はそれに対して、あまり好意的に受け止められなかった。
あの子の心を暴くことが、果たして彼のためなのだろうかと。
翌日。ふと目が覚めると、比呂がいない。あわてて飛び起きると、比呂は私のすぐ後ろにいた。
『おはよう・・。はやいな。』私は外していためがねをかけ、比呂のように窓の外を眺めた。
比呂は私のほうを見ると、『・・おはよう。』といい、視線を窓のほうに戻した。
窓の向こうには曇り空。たまにポツリと雨粒が落ちる。
『おじちゃん・・・。』比呂が言う。『ん?』私は比呂のほうをみて首をかしげた。
比呂は窓の外を見ながら、『ごめんなさい。』という。私は黙って首を横に振る。
『・・なあ比呂・・。何かつらいことでもあった?』
比呂は、ちょっと考えてから、『なんもない。』と言ってうつむいた。
『死ぬつもりで薬飲んだの?』
『・・・ちがう・・。風邪だと思って・・・・・。』
『だからって、飲みすぎだよね。』
『・・・・薬が全然効かなくて・・だから・・。』
『だから、あんなに飲んだの?』
比呂は黙って頷く。
『あんなに飲んだら死ぬかもしれないって、思わなかった?』
聞くのは怖かったが・・それでも私はこの子と共に生きる大人として、勇気を出して彼に聞く。
彼は、ゆっくり時間をかけて、私に言った。
『飲んでるうちに・・もう・・どうでもいいとは・・・・おもった・・。』
どうでもいいと思ったものは、きっと自分の命のことなんだろう。
私は胸が苦しくなった。心の中で音羽の名を呼ぶ。
『比呂・・・。主治医の先生と相談したんだけどね・・。』
『うん・・。』
『心療内科の治療を受けないか?』
『・・・・?』
『お前の心の傷を、治してもらおうよ。』
『・・・なんで?・・俺は・・何もそんなのないよ・・。』
比呂は、窓の外を眺めたまま、ゆっくり話を続ける。目にはいっぱい涙が溜まっていた。
『心の傷ってなに?・・・おっくんのこと?おっくんのことが心の傷?じゃあそれを治療したら・・・
俺の中のおっくんは、全部なくなるってこと・・?』
『・・・・。』
『別に俺は頭がおかしいわけじゃないし・・悩んで苦しんでることもない・・。
なのに何でそうやって・・俺が何かを悩んでるみたいな・・・。
おっくんが死んだことも、自分がもらわれっ子なのも・・別に・・なんてことない・・・
だって俺は・・そういう・・・そういう環境にずっといた・・俺にとっては普通なのに・・。』
心の奥をえぐられるような悲しみに襲われる。
『治療って・・・・・俺だって、いるだけで迷惑なのはわかってるし・・悪かったと思ってるけど・・
なら俺は、治療なんかしないで・・さっさと殺してほしいよ・・・。』
『・・・いるだけで迷惑なんて・・誰も思ってないよ。』
比呂の体が震えだして・・パニックに陥っているのが判った。
『・・俺はっ・・・俺は・・この先ずっと・・生きていかないといけないんだったら・・・
せめて何か・・気持ちの支えが・・ないと・・。』
『・・・うん。』
私は冷静な顔をしながら、必死に比呂の体を擦る。でも比呂には私の姿など見えていないように思える。
『・・だったら俺は・・・・・一日でも早くおっくんのところに・・・』
『・・・・。』
『・・だから・・治療とか・・そんなの・・受けたくない・・。』
『・・・。』
『だって・・そんなことしたら・・・今まで俺が当たり前だと思ってたことが全部、間違いだったってことになるじゃん・・。』
『・・・。』
『・・・・俺の頭がおかしいから・・治療して治すってことなんじゃん・・・。』
『そうじゃない。ただね・・』
そうじゃない・・といいながら、私は自分の心の中のやましい気持ちから目をそらす。
手に負えない彼の傷を、他人に託そうとしている卑怯な自分。
逃げに走ろうとしている私の愚かな心。比呂はそれを見抜いたんだろう。
比呂の目から涙がこぼれるのと同時に、彼が声を荒げていった。
『そうじゃないって・・じゃあなんだよっ。なんで、そうやって大人で話し合って色々勝手に決めるんだよっ。
俺の事なのになんでいつもっ・・、何でいつも俺のいないとこで、なんでもかんでも決まってるんだよっ』
天井からつる下がっていた点滴が、ばしゃんと床におっこちた。
『俺の運動会にはどの親が行くだのっ・・誰が引き取るだのっ・・
何でそんなことを俺の目の前で・・めんどくさそうに話するんだよっ・・
面倒ならどうにでもすりゃよかっただろっ大人なんだから、どうにでもできただろっ・・』
・・・音羽が亡くなってからのことを、この子はいっているんだろう。
私は比呂を抱きしめる。体つきはもう大人だ。力ではもうこの子に私はかなわないだろう。
ぎゅっと抱きしめて背中をさすりながら『比呂・・比呂。話を聞きなさい。』という。できるだけ冷静に私は彼に言った。
『比呂にはね・・もっと楽に生きて欲しいんだ。音羽を忘れろといいたいんじゃない。
比呂が悪い子だって言ってるわけでもない。おじちゃんはね・・ただ、お前にもっと、気楽に生きて欲しいだけなんだ。』
比呂は、抱きしめる私の腕の中で、必死にもがいていた。
強い薬を使っているから、ろくに力が入らない。そのうち抵抗をあきらめて、嗚咽をあげて泣き出した。
『楽に生きるって何だよ。今のこういうのが、普通なんじゃねえのかよ。
他人に気持ちを引っ掻き回されるなんていやだ。俺は絶対そんな治療受けない。
今の俺がおかしいって言うなら、一生狂ったままでいい。
なにもいらない。命も幸せも何もいらない。父さんにあいたいっ。おっ君に会いたいっ。』
ちょうど朝の検温の時間になり、部屋に看護師さんが入ってきて、
私達の姿をみると、いそいで主治医の先生を呼んでくれた。
比呂が放心状態になってしまったので、ベッドに寝かせ鎮静剤をうってくれた。
比呂が、再び寝息を立て始めたころ、佐伯君が登校前に病室に寄ってくれた。
比呂の手にできた新しいあざを見つけて、『何かあったんですか?』と私に聞いてくる。
私は、彼に全て話した。高校生にとって、それはきっと、重たすぎる話だっただろう。
でもその時、私は大人の男ではなかった。
血の繋がらない息子の心が見えず、路頭に迷っているただの小さな塊に過ぎなかった・・。
誰かに聞いて欲しかったんだ。
佐伯君は、淡々と話す私を見ながら、涙を流しつつ、黙って話を聞いてくれた。
最後まで黙って聞いてくれて、話が終わると比呂の手をぎゅっと握って、私に言う。
『俺がもし・・・俺のこの状態で心療内科にでもいけといわれたら・・比呂と同じ事を言うと思います。
うちは母子家庭で、よく周りの人から同情されたり心配されたけど、自分にとっては普通なんです。
普通の生活に対して同情されるのは侮辱と一緒ですよ・・。
きっとこいつは・・・比呂は、それと似たような気分になったんだと思います。
他人からみたら比呂の環境とか・・過去の思い出はつらくて悲しく思えるけど・・・
こいつにはその世界が全部で、それが普通だと自分に言い聞かせながら・・・必死に頑張ってきた・・。
・・・普段のこいつは、よく笑ってるし・・・ああいう楽しそうな顔に・・うそはなかったと思うんです・・・。
こいつは、人の気持ちを察するのがうまくて・・それはきっと、周りをよくみてるからだと思うけど・・・
もしかしたら・・俺も含めてなんだけど・・比呂がかわいそうな子だって・・勝手にそういう目でみてた俺達の・・
そういう視線が、こいつを・・こいつを苦しめてたんじゃないんですか・・。』
『・・・・。』
私は返事もみつからない。
『それでもこいつは、それに気づかないふりで頑張ってきた・・。自分は普通なんだって・・。
それを今になって・・そんな・・治療が必要だとか・・そんな風にいわれたら・・
そんなの・・今まで頑張ってきた人生全部を・・否定されるような物じゃないですか。』
佐伯君は、目を閉じ、涙をこぼしながら言った。
『これが普通なんだって・・言い聞かせながら頑張って・・こいつはこいつなりに・・
必死に平穏と幸せをつくってきたのに・・・。今更そんな・・・・』
私は、目を閉じて彼の言葉を心に刻む。佐伯君は涙を拭うと私に言ったのだ。
『だって俺・・比呂からは・・一度も家とかの愚痴を聞いたことがないです・・。』
佐伯君が学校にいったあと、私はしばらく考えていた。比呂は眠りながら泣いている・・。
もう一度・・ちゃんと、話をしよう。私は比呂の頬を何度も撫でた。
